星降る夜を忘れない
僧月照に諭されてから十年が経つ頃、列強の海外進出は目に余る速度で展開し、やがて日本にも大事が起こるだろうと国中が俄(にわ)かに騒がしくなっていた。
が、国やら藩やら、武士やら日本人やら、そんなことは俺にはどうでもよかった。
俺にとっての大事は、家族が食べていけるかとか、誰ぞ病に罹りはしないかとか、明日まで息をしていられるだろうか、とか…
高崎崩れ、の結果、父・次右衛門は喜界島へ流され、その息子である俺も罷免された。残ったのは、老いた母と三人の妹とあばら家が一軒――――――家族の中でただ一人の男となった俺は、大した作物も獲れぬ痩せた畑を耕し、遠い道のりを今にも千切れそうな草鞋で歩いて木の実や山菜をとってきては、僅かに余っていた味噌や糠(ぬか)に漬け込んだりして、無銭状態となった一家を何とか食わせていっていた。母は最低限まで家財道具を売り払い、妹たちは寝る間を惜しんでの針仕事…だがそんなことが如何ほどの蓄えになろう。親戚も友人も皆貧しく、とても借金や物分けを頼める義理ではない。だから俺は夜毎抜け出して、銭を得なければならなかった。
甲突川を遡ってしばらく歩けば、あとは朽ちるのを待つだけの小屋が数軒建っている。そのうちの一軒の戸口の前に立って声を掛けようとすると、奥から覚えのある荒い息遣いが耳を貫いたと思った瞬間いきなり扉が開いた。
「入れ」
「……」
拒絶できるものならば、誰がこんな処に脚を運ぼうか。躊躇すら見せずに、俺は土間に足を踏み入れた。
充満するのは、腐りかけた木の匂い。俯いた俺の鼻腔を襲う卑男(ひおとこ)の息遣い。
「……っ」
戸が閉まると同時に、それは始まった。
形だけの刀は土間へ投げ捨てられ、無防備に情けない金属音が狭い一戸建てに木霊する。響く音も虚しく暗闇に溶けゆき、変わって鳴るのは俺の着物が脱がされる音。単衣(ひとえ)は脱がさず胸だけ肌蹴るのが彼のやりかただった。
下半身が夜気に晒されて背中で怯えると、四つんばいにさせられていきなり指を埋め込まれる。
「…ッ」
「相変わらずのいい反応、だな」
二本目が入ってくるのを息を止めて俺は耐えた。びく、と肉が蠢けば蠢くほど男は悦ぶのだ。その指が抜かれた次には、頭を鷲掴みにされ勢いで糸が切れて髪の毛がばらりと落ちる。そして上から物凄い力を加えられ土間の冷たい床が頬骨に当たった。
腰だけを高く上げる格好で、俺は男の欲を受け入れさせられる。
ヒヒヒッ、といういやらしい笑い声も聞きなれた。やがてその声も襲い来る欲望に遠くなっていく。
男は城下士だった。罷免されて以来その日の食料にも事欠くようになった俺の腕を引いて金との交換条件に体を求めてきた。俺に躊躇う余裕などなかった。最も、郷士が城下士に敵うはずがないのだ。
これで何度目かはもう忘れた。
男は俺に自身を埋め込み挿し入れしはじめた。膝ががくがくなる。貫かれるたび腰が揺れる。俺は埃塗れの床についた腕と膝で、辛うじて体を支えているに過ぎなかった。
今日は一段と激しい。男は唸りながら一度放ち、すぐさま俺の膝を払ってうつ伏せにして再び行為を開始した。俺は自分が何度放っていたか、感じてすらいなかった。
「今宵は燃えるのぉ。お前も満足かぁ?」
「……」
俺は応えなかった。日頃の疲労と男の激しさについていけなかったのだ。早く終われと、それだけを考えていた。
すると男はいきなり自分を引き抜いて俺を仰向けにし、俺の頬を勢い良く叩いた。小気味良い音が狭い家屋に響いた。
「眠るとはいい度胸しとる」
「……、」
「まぁいい、今夜は俺も気分がいいから見逃してやろう」
男は再び俺のなかへ入り、そこを掻き回し始める。
「くぅ…!」
俺は下唇を噛んだ。だが鼻だけでは息が出来ない。結局男に喘ぎ声を聞かせるしかなかった。
「そのまま鳴いとれ、郷士が」
「……ッ」
蔑まされることには慣れていた。
それよりも、なかが熱くて弾けそうだ。いま突き上げられれば楽になれるのに、男は動きを止めて俺の顔を真上から見下ろしてきた。
耳までありそうな大口が横に裂けるのが見えた。
「お前の父は喜界島行きだそうだな。もう流されたか? 阿呆め。大人しゅうしておれば良かったものを」
「……」
「たしか次右衛門とか言ったな、ふん。一蔵、良いことを教えてやろう」
言って男はにやりと顔全体をさも楽しげに歪めてこう言ったのだ。
「お前の父は無学の子老などと吹聴しとったが、あれも昔、こうしてお前のように俺の親父殿の相手をしとったんじゃ、エェ?! 、一蔵!! 良う似た親子じゃ! 親父殿が言っとった郷士の息子が城下に居るちゅうから、見てみればなぁに、稚児顔した痩せ二才(にせ)が青白で歩いちょる。聞けば郷中頭の西郷の幼馴染と来た! ハハ、巨根ば咥えて尻振るわせる、愚かし親子が続いただけじゃ!!」
驚く間もなく、脳裏に浮かんだのは父の貌。暴洋遠く流されて、罪はおろか然したる裁きも無いままに、非業の我が身を耐え忍ぶ。そんな父を、俺は尊敬していた。たぶん誰よりも尊敬していた。
だからこそ父に代わって家を守ろうと、自らこの獄に足を踏み入れたというのに。
「…ッ」
男の動きが激しくなった。絶望で体から力が抜けていく俺を、この際攻め抜こうとしているのだ。息も出来ない。が、そんなことどうでも良かった。
涙が零れた。きらきらと。それは自分の為ではなかった。
ち、ち、うえ…っ――――――――
男が土間に小銭を投げ捨てていった後しばらくして俺は立ちあがり、同じく捨て置かれたようになった着物を身に着けた。少し動くだけで全身が叫んだが、無視して腰を屈め埃の中の銭を拾った。
俺は戸を閉めて、小屋を後にした。
明日の仕事に負担を掛けぬ様ゆっくりと歩いて、誰も居ない甲突川の河川敷へ向かう。静かだ。せせらぎしか聞こえない。月に照らされながら着物を脱いで裸になった。
ぴしゃ、と波を立てながら川に入っていく。
とにかく全身に塗りつけられた苔を―――――自分のものではない唾液が乾いたものを―――――落としたかった。速る水の速度と冷たさには既に慣れていたが、男が注いだ液が流れ出るときだけ、俺は瘧(おこり)の様に体を震わせて反応した。そんな自分が嫌だったから、川のなかで曲げた膝を両腕で抱え、膝に顔を伏せた。すべて流れ出ると俺は息をついて川の真中の方へ移動し、頭を含めた全身を水に漬けた。
沈んでいく。髪の毛の一本すら残さずに深みのなかに身を浸してゆく。
このまま沈んでいけたらいいのに。
何故ここで、息を吸って肺臓を水浸しにしてしまえないのか―――――…
『月になれ』
幼い頃誰かが言っていた。
『日本を照らせよ』
出来るわけがないだろう。俺はこんななのだ。あの男の言うように、男を咥えて悦ぶ傀儡(くぐつ)に成り果ててしまったのだ。たとえそれしか出来なくとも、それをばねにして脚を踏ん張る気力さえ、俺は持ち合わせていないのだ。
こんな俺に、あいつの隣にいる資格は無い。
なのに離れたくなかった。
「……」
矛盾だ。壮大なる、これは矛盾だ。
己に嫌気が差した俺は音をたてて水から上がった。
河川敷へ戻って着物を着てそこに座る。両腕で膝を抱え揃えた膝に顔を伏せて、冷え切った体を風に吹かせた。
向かい風が川面で温度を奪われて冷えている。痛めつけられた躯が軋む。それもどうでもよかった。
このまま風化でもしてしまったらいい。この体でよければくれてやる。それとも親子二代で穢れた体など、屍でも誰も欲しがらないということか。
「……」
俺は父を思い出していた。
潔癖のひとだった。古朴の割に荒荒しさなどひとつもなく、寧ろ息子の俺のほうがそういう意味では強かったかもしれない。そんな俺に対し父は、諌めはしたが怒鳴ったことは一度もなかったのだ。
俺には兄弟として妹が三人いるだけだった。子供の頃は体も弱かったから、余計に大切にされていたと思う。胃腸の優れない俺のために、苦しくてどうにも歩けない俺をあの薄い背中におぶってまで、温泉に連れていったりした。
その父がまさか自分と同じことをしていたなんて。
そして俺は助けてやれなかった。
「……」
顔を伏せたまま、俺は目を閉じて潤む瞳を瞼で押さえていた。
小半刻ほど経った頃、向こうから聞こえてくる足音を耳が捕らえた気がした。はっとして顔をあげ石の上に転がしていた刀に手をあてて、俺は息を潜めた。
この辺りに野犬なんかが出るのは珍しいことではない。俺に切れるだろうかと思いながら刀の柄を握り、鯉口を切ろうとしたとき大きなものが見えた。
近づいてくる。それの体つきに俺は見覚えがあった。
「吉……」
そこに居たのは、西郷吉之助であった。
吉之助が手にもった提灯を俺に向かって翳すと眩しい。俺は手で瞼を覆うようにして、彼が河川敷に降りてくるのを見ていた。
吉之助は俺の前に着くと、俺の生乾きの前髪を掻き揚げて、俺の顔を覗きこんだ。
「誰ぞと逢引きでもしちょっとか」
「……」
突然の彼の登場に眼を大きく開けていた俺だったが、その台詞を今は冗談では流せなかった。俺は俯いて黙り込むしかなかったが、そのあいだに吉之助はいきなり手を伸ばして俺の袴の紐の結び目を解いた。
「…ッッ、」
慌てて、俺は手で彼を遮る。
「誤解じゃ」
吉之助は静かながらも微かに怒りを含めた声で、俺を諌めた。
「おぃはひとのもんを欲しがりは、せんど」
「………」
俺は世界が歪んだような眩暈を覚えた。
吉之助は知っていたのだ。夜毎俺が男を咥(くわ)え込んでいたこと、そうして僅かばかりの金を得ていたことを。
吉之助が怒っている。軽蔑される。そう思うだけで、俺は自分の胸が残らず竦んでいくのが分かった。暗闇にまっさかさまに落ちていくようだった。
生乾きの髪が、ばらりと落ちる。
しかしやや遅れて、頭がくぃと引っ張られ俺は正気に戻った。
「…?」
何だろうと頭を上げると、吉之助が俺の髪の毛を引っ張っている。
「おぃの袴と単衣、持ってきた」
「…え?」
言って吉之助はぱっと俺の髪を離し、腕に掛けていた袴と単衣を俺に差し出した。
「じゃから一度脱いで、こぃを着ちょれ」
言い終わるや否や、吉之助は先ほど摘んだ俺の袴の紐をしゅるりと解くと、俺に有無を言わせず袴を脱がせた。
「ちょ…吉…」
「一の躯ば、おぃが一番知っちょるからの」
それッ。
掛け声を掛けて吉之助は屈み、俺の両脚に両手をあてて、そのままひょいっと持ち上げた。
「軽いのぅ、丁度良か。着る、ちゅうまでは降ろさんど」
「吉っ」
「着るか、着ねか、どっちじゃ」
吉之助の声はこの状況を楽しんでいる。証拠にぶんぶんと俺の体を空に浮かせたまま上下させた。
高低差が凄いので、俺は吉之助の肩に両手をついて何とか支える。
その間も小憎らしいくらいに、俺の体が上下するのだった。
「着るか??」
「…る」
「聞こえんナ」
「着るっ」
言うとやっと吉之助は俺を降ろして河川敷に足をつけさせた。
俺はほっと息をつき吉之助に背を向けて、漸く着替ることが出来た。
全くなんて力だろう。相撲を取らせればあわよくば城下一に違いない。いつか体重を量ってやろう。
単衣からして大きい。はっきり言って、俺の腰周りのゆうに三倍はあるから、袂が合わない。しかも袴は吉之助の脚一本分に俺の両脚が入っても猶まだ余る太さであった。
大きいのは分かっていたが、これではあんまりだ。第一仕立てるのに手間が掛かりすぎる。洗うのだって一苦労だ。
そんなことを考えていた俺は、先ほど言われた逢引き云々のことを忘れかけている自分に気がついた。
「……」
さっきの狂言は、俺を労わるためのものだったのだ。一見粗雑にみえて、この男は実に奥が深かった。長い間傍にいて誰よりもそれを身に染みて分かっていたはずなのに、俺はそれすらを忘れようとしていたのだ。
『愚かし親子が続いただけじゃ』
暴言が蘇る。だが真実だと思った。
耳を塞ぎたくなった俺は、俯いて両瞼をきつく瞑った。
「…なんじゃ、また秘密ばァ隠しちょっとか」
「……」
俺の態度に、俺の背中に向かって吉之助は大きな溜め息を吐いた。
「一はいっでんこぃじゃな。なんでん(=なんでも)ひとりで溜めこみよる。全くおぃは、何のためにお前(まん)さぁの隣におっとじゃ」
「…!」
その言葉にはっとして、振り向いた俺は吉之助をみた。
月光を浴びた吉之助は、背の高いまるで化け物かなにかのようだ。眉毛は濃いし、目は刳(く)り貫いたところに埋め込まれた黒曜石。太い声。その上巨大漢とあっては、近づきたくとも近づけない。そのくせ感情量は人一倍で、笑って泣いての大騒ぎ。
なのに隣にと選んでくれたのはこの俺で、他の誰でもなかった…
そこまで来ると俺のなかを占めていた感情が溢れ出した。頬をぽろり、と涙がつたってゆく。
何の涙だろう。悲しいとか嬉しいとか、相応しい言葉は浮かんでこなかった。そんなもの、要らなかった。
止まらない。
吉之助は近づいてきて、俺の背中に大きな手をあてがった。
「好きなだけ泣けばよか。おぃの胸ばひとの倍はあるからのぅ、小さい一ばこうじゃ」
言って吉之助は俺の背中に腕(かいな)を廻してきた。俺はすっぽりと包まれる。
俺は厚い胸板に頬を寄せ、込み上げるままに泣き出した。彼の前で躊躇いなどなかった。躊躇いすら、この男は飲み込んでしまうから。
時折太い指が止まらぬ涙を掬っていった。舐める音が聞こえたが、吉之助は冗談を喋りはせずに、無言のまま終わるのを待ってくれた。
どのくらいそうしていただろう。頭頂まで濡れていた髪の毛が乾き、俺や吉之助の肌を柔らかく撫でるようになったころ。
俺の涙がすっかり収まると次第に関取のような腕を緩め、一方の手で俺の頬を他方で肋(あばら)を触ってきた。
「…こげに痩せ細って。碌に飯も食わんでおるのじゃろ」
「……水と魚は、食べた」
釣った小魚をニ匹ほど。
正直に告白すると、吉之助は大きな溜め息をつくのだった。
つきながら力を加減気味に、また俺を抱きしめてそこに座った。俺も座った。
「一がそげなら、もう抱いてあげもはん」
この場合、抱くとは衆道の意味である。
「おぃの体ァ乗っだけで、ぽきんと折れるに決まっちょる」
「吉さぁが我慢できるものか」
「…口だけは肥えとるわい」
言って吉之助は大声で笑った。つられて俺も笑った。
その声だけですべての痛みが消えていくのが分かった。俺は吉之助の大きな胸に頬を寄せたまま、吉之助の飛ばす冗談を笑ったりした。冗談の間に吉之助は、食事は自分(吉之助)の家で食べれば良い、遠慮なんざしてくれるな、と言った。だから二度と無理なことはするな、とも言った。俺は頷きながら、飽きることの無い彼の鼓動を聞いていた。
…そうだ。俺は膝を抱えながら吉之助が助けに来てくれるのを待っていたのだ。きっと助けてくれる。手をとって涙を拭いてくれる。どこかでそう信じていたからこそ、こんな境遇に身を置いてもへこたれないでいられたのだ。
「…吉さぁ」
俺は吉之助の胸の中で呟いていた。声が掠れている。
「なんじゃぁ」
大きな背を丸め俺の髪を撫でながら、吉之助は応えた。
「抱いてくれ」
瞬間、吉之助が腕を解いた。
俺は河川敷に転がされる。そして仰向けに倒れた俺のまえに現れて顔を覗きこむのは、いつも瞼の裏に描いている男なのだ。
黒い瞳とみつめあう。
「よかか」
「よか」
「一蔵」
呼ぶなり、吉之助は折角着せた彼の袴を俺から引き摺り下ろし、単衣を左右に肌蹴た。
「あ…吉、さ……」
星が瞬く。流れ星だ。見上げれば空はこんなにも綺麗だった。
そんなことを思いながら、俺は瞼を閉じて吉之助を抱きしめ、彼の動きに身を任せていった。
熱い。燃えそうだ。身も心までも溶けてゆく。
このままどうかいつまでも、ずっとふたりでいられるように。
きっとお前の月になるから。
ああ俺は今日のやすらぎを
星降る夜を忘れない
*******ひとこと*******
いいとこ取りはやっぱり吉之助。
一蔵はこの夜のことを
一生忘れないのであった。